対話形式の掲載にしていますので、ぜひ見てください。
弟子に伝えるために その師匠にあたる人がどんどん書いていって、それを代が変わるごとに書き足したり 修正したりしたものらしいんです。
修正点が多くなったら、原本は残して修正を加えて書き写しながら、代々伝えていくというやり方やったんだと思います。
そのままでは読めなかったので、とりあえず古文の先生に書き下し文を写真1の上 40ページは全部、写真1の下 20ページぐらいまでやってもらっています。
この書物を残した方の造った仏像がどこかにあるんだったら、その仏像を見ながらこれを見ると なるほどな と思うことがいっぱいあると思うんですけど、残念ながらこの方の仏像に辿り着けませんでした。
なかには、仏像の裏板とかの木をひっくり返したところに "ここはこういう風に造るんや"って、 殴り書きみたいな筆の字が残っていたりもします。
それは その棟梁が子仏師たちに説明をするのに書いたもんやろうな〜と思います。
この板ををここに使えとか、組んでいく時に場所が分からなくならないように 正面、右端とかそういうのを書いて渡して、そこにはめたりしてたんでしょうね。
その文字を書けるようになって、指示ができるようになった人たちが棟梁だったんじゃないかなぁ。
武家の時代では商家か武家かお寺ぐらいしかなかったはずなので、その職人衆で文字が書けるっていうのは かなり上の人やったと思います。
その流儀っていう慶派(けいは)とか院派(いんぱ)とか言いますけれど、 現存する仏師の工房の流派の9割5分は、慶派やと思います。
慶派の仏像がやっぱり皆さんお好きなのと、造る本人もやっぱりそれが好きなので、慶派の勉強をしているはずです。
運慶さんの造作はあまりにも難しすぎるというので、慶派は 江戸時代に一時期 途絶えましたけれどね。
確かに難しいですが、今の技術を持ってすれば、運慶さんの技法なり云々というのは造れるんですよ。
寄木(よせぎ)作りの大きい仏像を造るというのが、よほどの資金と職人衆が集まらないと やらなかった技法で、鋸(のこぎり)とかしかなくて、鉋(かんな)もない時代に寄木作りの そんな造り方などは手間でしょうがないっていうことで、1mぐらいの3尺の仏像というのが 江戸時代にすごく多くなっているということなんでしょうね。
一木造り、一木で彫って上から鉈(なた)を入れてパーンと割るだけ。
で、内ぐりをして それを膠(にかわ)でくっつけちゃう。
快慶さんの造り方って言われているんですけど、運慶さんもやっていますよ。
安阿弥(あんあみ/あんなみ)と言われる阿弥陀を一番得意としている快慶さんの造り方が こんな簡単にできるっていうことで 快慶さんの名前が伝わっていって、江戸時代の仏師といったら快慶さんなんです。
運慶さんが生きてはった時には 確かに棟梁として 運慶さんが一番上ですけど、江戸時代では 安阿弥快慶というのが 仏師の最高の造作で それを目指してみんな快慶風の仏像を造ると それをみなさんが欲しがるってことだったんです。
狂言の中に「仏師」※2という演目があって、
その中に出てくる 安阿弥 っていうのが
快慶さんのことなんですよ。
「我は安阿弥(快慶)の生まれ変わりなり」
「ほぉー、あんたが安阿弥(快慶)か」
というセリフがあるんですよ。
快慶さんが生きた時代から400年経っとんやけど(笑)
狂言に残っているぐらいなので 仏師の総称は必ず快慶さんで、 それぐらい有名やった 快慶 を捩(もじ)って狂言の中に取り入れて 面白おかしく描いてるっていうのもあります。
今では 運慶さんが有名なんだけれども、
それは明治以降に学者の先生方が運慶さんをクローズアップしたからなんです。
"快慶やなくて運慶の方がすごいんちゃうのん"って
言い出して、昭和に入ってから いろんな先生方がまとめて 自分の見解も含めて 慶派造仏法・運慶論であったりというのを いろいろ説明をしだしたわけです。
運慶信者みたいに先生方が クローズアップして 紹介していったら、一般の人も 運慶すごいぞ と。
それで運慶さんの名前がどんどん出てくるようになったんですね。
それを こぞって 仏師って言われている人、彫刻家と言われている人たちは 勉強したわけです。
それで運慶・運慶…って言われていたので、
私がスケッチをしたりするのは、小さい頃から運慶さんの仏像だったんですよ。
で、宗琳先生は快慶さん※3が大好きやから運慶さんの話をすると、ごっつい機嫌悪くなる。(笑)
大(おお)先生の方は運慶さんが好きでしたね。
こういった門外不出の工房内の造仏技法の書物や口伝のみでしか伝える術がなくて、一部のものにしか教えてもらえなかったものが、2,000ページぐらいあるはずです。
(一同 驚)
私も いまだに よく分かりません。(笑)
その工房で長く受け継がれたものを この2冊にまとめているわけですから そういったものが2,000ページもあったと言ったら、それを解き明かして 自分の "ものにする" っていうのは、多分無理やと思います。
今では 普通に販売されている、造仏法・仏像論・運慶論といったものにほぼ全部出ていると思います。
それぐらい今はオープンになりました。
その時代の工房の数は京都で40〜50箇所とか言われていますが、 昔は今の様に 他の工房との交流だったり、内容を合わせるといったことはしていないです。
それでも 照らし合わせてみると どの工房も ほぼ同じ様なことを言っているんです。
要約して1冊の本にまとめてくれたり、
それを部分部分で4冊にしたもので
「造像法(造仏法)」
「心構え」
「生活の中」
「信仰」
という風に分けて、
学者の先生方が出してくれています。
・工房に弟子として入るためにどうするか
・お坊さんと同じように僧籍を取ってくる
・精進潔斎(しょうじんけっさい)※4
そういうところまで事細かに書いてある工房に伝わる造仏法であったり、心構えであったりというのがありました。
「一回弟子に入ったら、出る時は骨になってからや」って言われるぐらい厳しかった。
「朝はこれを食べて、
お昼はこれを食べて、
夜はこういう食事をするなり」
というところまで決められて。
肉食(にくじき)禁止、こんなものは 食べてはいけない
仏師禁制八箇条、こういう行いは してはいけない
そういうのも ありました。
だから、お坊さんと一緒です。
修行僧の様な本当に厳しい生活やったと聞いています。
そこに書かれているこんな生活、できるわけないんで。
今だから こうやって 簡単に仏像彫刻って みなさんができますけど、その当時は "京都のものしか弟子に取らん" という風習もあって 限られた人だけが仏師になれた時代に奥義書が欲しくて 厳しい修行と勉強をしていたんですよ。
書物で伝わってきた運慶さんの造り方、鎌倉時代の造り方の文言のニュアンスなどがちょっと違うんです。
だから 我々が勉強させてもらっているのは、平安時代や鎌倉時代、室町時代の文献 それから造仏の方法を専門家と言われている方々が本にしたものです。
左「仏像彫刻の技法」
中「続・仏像彫刻のすすめ」
右「仏像彫刻のすすめ」 「仏像彫刻のすすめ」
松久朋琳/著
・出版社名:日貿出版社
・発行年月:1973年5月
我々が今彫れるのは、ここまで伝え繋いできた たくさんの人があってこそです。
それを一つでドーンと飛び越えたこの本が できたおかげで、私も今ここにいます。
昭和40年代、うちの師匠が教室の生徒さんのために一般の方々にもわかるような手解き書
「仏像彫刻のすすめ」という本を出されました。
これがあったおかげで 日本国内の仏像彫刻を目指す若い子というのは育ったと思います。
鹿児島の端っこに住んでいた私が この本を見て勉強ができたわけですよ。
ということは、全国でそれを目指す子らが、師匠を求めて全国から集まってくるきっかけになりました。
京都のものしか弟子に取らんという風習も関係なく、それを地方からでも、それこそ九州でも北海道でも 弟子たちを迎えるという方策をとってくれたおかげで、我々の今があります。
各工房に伝わっているものを、その直系の弟子たちに受け継いでいくっていう形でしか勉強できなかった事柄が、一般の方々、それこそ小学生、中学生も含めて仏像彫刻に触れる機会ができたというのは、やはり 松久先生が昭和の時代に この本を出版されてからだと思います。
それからは いろんな方々が、仏像の彫刻法や、すすめ、練習方法であったりという本を出されています。
ただ その先駆けの この手解き書を出版された時は、ものすごい批判を受けたと聞いています。
自分ところの流儀の生徒だけじゃなくて、海外の人たちがこの本を買い求めて、 昭和40〜50年代は 日本向けの仏像が中国や台湾でたくさん造られました。
生徒や一般の人たち、新しい弟子たちのための手解き書を作ろうという試みだったものが、 海外で大量に安く仏像を造る きっかけになっちゃった ということがあります。
それで「一斉に攻めてきた」ということになって。
ただ、自分ところのために出した本なので、海外のどうのこうのといった批判を受けても、"どこ吹く風"みたいな感じで勉強させてましたね。
書物を解き明かして割によく分かるようにしたのが この「仏像彫刻のすすめ」なんです。
聞き慣れない昔の言葉や 伝わりにくい言葉を 一切排除したもので勉強できるようにして、 今まで改訂版を何版、何版ってしていますけど、伝わりやすいように文言を選んで、その度ごとに変わっています。
初歩の初歩から説明をしたのが この本なんです。
工房内で伝えられた書物を一般の人に、こんなんやでって見せても絶対入ってこないです。(笑)
こういった書物には正面の図しかないでしょう。
彫刻をするためには絶対に 後ろや横の図がいるんです。
彫刻をしている途中も全部 写真で説明してくれています。
こんな本がその当時までなかったので、本だけである程度 勉強ができるようになった松久先生の功績というのは大変なものやと思います。
中には昔の呼び名を そのままにしているのもあります。
身長は髪の毛の生え際から足元までを10等分にして、手のひらの長さは、身長のです。
身長を10等分にすることでいろんな部分の寸法が決まっていて、この本の中では10等分のことを「1、2、3、4」で言わず「1ツ、2ツ、3ツ、4ツ」という言い方をしています。
これは松久系列の流儀の昔からの呼び名だと思うんですよ。
「体の幅は 2ツ、
奥行きも 2ツ、
それから 顔の幅が 1ツ半、
足の長さは 1ツ半」
そういう 言い方です。
それが 1.5とか 数字だけで言うような教則本もあります。それは現代的にやっているだけだと思うんですけど。
昔からの呼び名で尺貫法をそのまま使っているのは、数字的なものとか基準を全部尺貫でやってあるからで。
でないと 数字がおかしくなるんです。
1尺って言えばいいものを、30.3cmとかになると もう覚えられない。簡略になる工夫もされています。
今は、学校で尺貫法を教えてもらうわけではないので、これは入る前に覚えておいてくださいというのは 鉄則でやっていますね。
そのお話を聞いて、
この本によって、日本の仏像彫刻技術の底上げにも
つながったと思いました。
私も父親に勉強させてもらって10年して入ったので、
そこそこ彫れるつもりで自信を持って行ったんですけど、
まぁ、思いっきり投げ飛ばされましたね。
これはえらいところへ来たと思いましたね。
一緒に入ってきた子らも全員 もう既に彫れるんですよ!
だから 弟子に入った時は ものすごく立ち遅れている感じがしましたね。
当時の私は、明治期までの弟子を取る云々というレベルでは なかったと思います。
掃除・洗濯からやり始めて、3〜5年したらちょっと彫れるようになったか ぐらいの感じではなくて、
「仏像彫刻のすすめ」
「続・仏像彫刻のすすめ」※5
「仏像彫刻の技法」※6
この3冊の本を勉強して、
「ここまで彫る人間じゃないと うちは取らないよ」というのが、一応、暗黙の了解みたいな形で確立されていって、ある程度 彫れる子らが入ってくるようになったので、競争の倍率はかなり上がったと思います。
教室に来ている秀でた子らを弟子に迎えるというシステムもできていましたしね。
この本をきっかけにこの師匠を探してくれて ちゃんと道筋を作ってくれたのが父親です。
3〜4年にかけて、毎月手紙を便箋で20〜30枚ぐらい書いて送ったので、 師匠が根負けしはって、
じゃ、いっぺん 会いましょうか ってなったんですよ。
うちの父親は本当に厳しかったですけれど、ほんとお師匠さん、お二人とも父親に比べればですよ、ほんまに優しかった。
いらんことは一切言わんし、作品には責任を持ってというたった一言だけ。
こんなちっちゃな手習いにしたって、指1本でも全部置いとけっていって言うてくれた人なんで。
それが いずれは参考 自分の支えになるって言うてくれて残してたんですよ。
真逆やったんで、うちの父親は、彫った手習いしたもんは置いといちゃならんので、全部捨てろ、土に戻せ、焼いてしまえって 言っていましたけれど。
大(おお)先生のを最初に習ろうて、その後 若先生に習ってというのが 12年でできたので、それはすごい私の財産になっていますね。
細かいところもそうだし、木の愛し方っていうのも。
18歳で弟子に入った時には、
「遅いっ」って言われてね、
「父親に8歳から習ってました」と言ったら、
「おぉ、そうか。そうやったら 入れ」
っていう感じの面接やったと思いますね。
朋琳先生は10歳から弟子に入っているので、18歳の子は、わしは弟子に取らん言うて。
中学校を出て すぐの棟梁で15歳、
「それでも もうわしより 5年遅いぞ」という感覚だったので、それで 高校には行かずに そのまま弟子に入られたっていうのを聞いてます。
今では家で勉強できるし、大学へ行って大学である程度勉強してから デッサンなり 彫刻なりをやってから、もしくは教室に通ってから入ってくるということになりました。
今は寿命が延びているから、私はそれでいいと思います。
昔は65歳、70歳まで第一線で指導しながら仕事するというのはちょっと難しかったと思うけど、今はね 70歳では引退させてくれないです。
やっぱりもう80歳まで現場におって、作品を造り続けろっていうことに今はなっているので、だから10年遅くても大丈夫っていう感覚には今なっていますけれどね。
やっぱり我々の世代よりも前の世代の人らの方が、飲み込むといった吸収するスピードは、はるかに早いと思います。
渇望している時期があって、
早く、一人前になるには?
早く、お給金をもらえるようになるには?
っていう意気込みが 全く違うんです。
私らの世代の時にはもう 最初から要するにお小遣い
月3万円をもらっていました。
それからすぐに月給になりました。
それで 月6万5千円とかなったんですよ。
嬉しぃてね。
材木は買えるし、彫刻刀も買えるしってなって。
それから8万円になって、
9万円になって、
10万円になってという頃から、
お金をもらうのが 恥ずかしくなるんですよ。
自分は こんだけ もらえるだけの仕事は まだしていない
と思って。
先輩らがやるスピードを見ていたら、やっぱり我々の倍以上のスピードで仕事してたし、それを完成させるのに自分やったら2週間かかるっていうのを 1週間以下で もう仕上げていましたからね。
だから そのスピードについていかないかん。
みんな、右手でも 左手でも 彫刻刀を使いました。
だから 例えば大きなのを造る時にも 向かって右手側は彫れるんですよ。
で、向かって左側を彫る時には ちょっと手が変わるんで、 普通だったら仏像を寝かして逆さまにしてそれで彫るんですよ。
そんな手間なことしてられんというので、立てたまま 向かって左側を左手で刃を当てて 彫れるようになってました。
正中線を見ながら正面を合わせていけるというのは、やっぱり便利ですよね。
そうやって 一番最後の独立する前には 30万円をいただきました。それで 所帯を持てるようになったので。
今やったら所帯を持てる給料は 40万円だと思います。
だから それぐらいの仕事をしてもらえない子たちがいるんだったら、その上の子らが その子らを支えないといかんわけで、工房自体を運営するのに こういう風なシステムを作っておく必要があるというのも、ちょっと昔とやっぱり変わってきてますね。
この本がなかったら、その工房が ある宗派の仕事しかしていないと その書物には その分しかないということなのでしょうか?
そうですね。
だから この書物なんかでも 阿弥陀さんのことを書いてあるものが 多いんですよ。
"こんなのを彫りたい" という希望が出てきたら そこを辞めて それを専門で もしくは うまいとされている お師匠のところに また再入門をしにいくということも あったそうなんですけど、それを何回もやっていると「流し」または「流れ」と言われました。
今、その言葉が残っているのは宮大工さんです。
お寺の本堂も、塔も、庫裏(くり)※7も造れるっていうんで、おトイレも。
いろんな技術を持ってる人っているんですよ。
それが本当の棟梁なんですけれども。
棟梁クラスの宮大工さんは 工房を構えて そこの地だけでやっているというよりも、会社勤めにして各地方に仕事ができたら、そこへ行って その現場の人らとチームを組んで やるという仕事のやり方です。
だから そういう方々は 今は重宝がられています。
だから仏師でも そういう関東であったり、関西でやったりっていうのも あったんでしょうけど。
運慶さんも関東の仕事も、関西も、九州でもやっているので、そういう 流しの棟梁というのは当時から あったんやなぁって、そう思いますよね。
昔、「ちょっと他人の飯食ってこい。」って、そういう言い方をよくしてたんですがね、 今でもそうやって、工房同士の息子をコンバートするていうのもあります。
3年、5年を別の工房で勉強して 自分のところに帰ってきて、手伝ってもらおうという 親御さんが多かったらしいんですけど、10年預けるというようなことになると、その工房に居着くということになって、帰ってこない ということになるので、大体 3年か長くて 5年です。
なぜかというのは、私も一番弟子を 10年教えてみて その子が跡継ぎさんだったんですけど、10年経ってから家に戻すと、お父さんと仲悪いんです。
家に帰ると親子なので 師匠という感覚じゃなくて、親子だと ちょっと言葉が荒っぽくなるんですよ。
親子やから特に、近しいから余計にムカっとくるんでしょうね。
私の匂いがつきすぎて お父さんの言うことを聞けなくなって、 僕はそう習ってないって 言い出すんですよ。
それを言われるのが 一番腹立つんですよね。
なんか そのおじいちゃんが
「無礼者! うちはこうや!」
とか言ったらしくて。
当初は。
もう 20年以上前ですから、
今は 工房を仕切って やっているはずなんでね。
何年かは その家に近づかなかったね。(笑)
これは、失敗したなぁって思ったね。
だから 跡継ぎさんが入ってきた時は、うちも 3年か 5年で一度 帰します。
それで 自分ところの実家で そのまま勉強できるんやったら そのままでいいし、いや、もうちょっと勉強したいな ということやったら、再入門してもらって というのに 切り替えました。
だから 昔ながらの人が 3年、5年で家に戻すというのは、あ、こういうことか というのが よくわかりましたね。
40人を超えていますからね、
私の前を通り過ぎて行った弟子がね。
工房でのやり方はもちろんのこと、
それだけ共有されていても
それぞれの違いというのは あるんですね。
この流儀という風にして 同じ本を読んでやったとしても、ここの工房とここの工房では 出来上がったものは、まるっきり違うという風に私らは 分かります。
造った本人らにすると、まるっきり違うという意識で彫っていても、他の流派の人から見ると
「ああ、これは 松久さんとこの 仏像やな」って言われます。
だから 納まった仏像というのは 大体同じ世代や上ぐらいのものであれば、 多分 これは 誰それが作った 仏像やなってというのは わかります。
仏師と言われている仕事は 最初の練習から お師匠さんが造った仏像のまるっきり おんなじものを造るための勉強なんで、だから 見たものを こっちに写す というのを 木で彫れるというのが 仏師だったら できるはずです。
私らの仕事は とにかく伝えることなんで、そのやり方ができれば聞くこともできる。
お施主さんの お話なり 希望なりを 聞くこともできるので、その聞いたことを 形にすれば いいだけ。
オリジナルを作る という仕事もありますけど、
ほぼ 昔からのものを 踏襲して、
じゃ、こんなふうに彫りましょか、
こんな面立ちにしましょうか っていう、
それが 私らの仕事なんですね。
それができるようになって、
その手の手段が 多ければ多いほど、
その施主さんの希望に沿える手段が多くなるわけです。
言うてることが 分からん
ということは 多分ないと思うんでね。
そういう風に 育ってほしい ですけどね。
それを自分で 噛み砕いて その表現が できるように
自分で構築しなきゃいけない。
「この人、何を言うてはんねやろ」
というのでは、形を作れないですからね。
だから図面を何回も描いて、
こんな感じですか?
こんな感じですか?と言って見せます。
大きさはこれぐらいですか?
目線はこんな感じですか?とか
で、お座りになって 拝めますか?
いや、もう足が悪いから椅子やとか、
そうすると 50cm上がるわけですよね。
ほんで、それからスタートするわけで。
それが仏師さんの仕事だと思います。
その時の顔の角度をしっかり合わしてあげると
「こんなんやったら拝みやすいなぁ」
という言い方をする人が多くて、
意外と老僧であっても ご希望をしっかり持ってはります。
若い頃から修行をしてきた本山で修行しはった人は、
若い頃からずーっと拝む 拝み方の練習をしてきたわけですから、その仏さんが対象になるですよ。
または その仏さんが自房※8に帰ってきて、拝んできたその歴史上、自分が好みや理想とする仏さんの姿がどこかにあって、それを思いながら拝んできたかのどっちかです。
修行時代の面立ちの仏像か、
自分の理想としたものを構築して想像で拝んでいるか
そのどっちかを表現してあげれば、
拝みやすいというのは言っていただいてそうな気がしますけどね、今は。
というのも、
「いや、実はな わしは本山の
あそこにあった あの仏さんが好きでなぁ、
まぁ、あそこの前に行って お経をあげるのが
大好きやったんやぁ」
というのを ある坊さんから聞かしてもろた時に、
こんな仏さんが あの本山には ないけどなぁっていうのを 思ったのがきっかけで、
あ、修行時代の仏さんでもうその人が拝みやすいのは、
ずーっと想像で作り上げて、頭の中だけにある仏像やろなぁと。
そういう方も半分いるんですけど、 若い頃に 好きで好きで たまらなかった 仏さんがおって、あの方をお迎えしたいというのが半分いるなっていうのは、その時に初めて分かったっていうか。
まず、そこに到達できて、その表現ができれば
一人前として、独立は許そうかなと思ってますね。
というのは、聞く耳を持って 育ってほしいからですね。
お師匠さん達から向吉先生、そしてお弟子さんへ
伝え繋いでいるものが、正に今ここにあると感じます。
とても興味深い資料もご用意いただき、ありがとうございました。
※1 門外不出
京都のものでしか手に入らず、特に西本願寺さんはすっごい厳しかったので、
西本願寺の仏像の彫り方というのは仏師工、仏匠工とも言いましたけれども、
その所属している人らにしか彫り方を教えないという、
その当時30〜40人おった人の中の2人か3人しか知らなかったと思います。
だから 専属っていう形で西本願寺の仕事をする人が
一生 西本願寺の仕事しかしないという状態やったと思います。
今はもうそれを言ってたら途絶えちゃうので、だから今は、
仏師工にいろんな方に所属してもらって点検という作業になるんですよ。
合格っていう、確かに西本願寺の仏像の彫り方になってますよというのを
ご門主(ごもんしゅ)※から証文と判子をもらえるんですよ。
※「ご門主(ごもんしゅ)」または「ご門首(ごもんしゅ)」とは、
浄土真宗(本願寺派や大谷派など)において、宗祖である親鸞聖人の
教えを受け継ぐ宗派の最高指導者(法主)を指す言葉。
そういうのを何人かで今、守ってやってますけどね。
※2 狂言「仏師」
仏像の注文主である田舎者と それを騙そうとする都の詐欺師(すっぱ)の
滑稽なやり取りを描いた作品です。
※3 快慶さんの方が運慶さんのお弟子さんだけれど、快慶さんの方が年上です。
※4 神仏に仕えたり祈願を行ったりする前に、肉食や飲酒を断ち、
行いを慎んで心身の汚れ(穢れ)を清めること
※5 「続・仏像彫刻のすすめ」
松久 朋琳 松久 宗琳 共著
出版社名:日貿出版社
発行年月:1975年8月
※6 「仏像彫刻の技法」
松久 朋琳 監修 松久 宗琳 著
出版社名:日貿出版社
発行年月:1976年1月
※7 庫裏(くり): 寺院建築において、住職やその家族が生活する
居住スペースや、寺務所のことを庫裏(くり)と呼びます。
宮大工は本堂などの仏閣だけでなく、こうした生活空間である
庫裏の建設や改修も手掛けます。
特徴: 寺社建築の高度な木組みや伝統技術が活かされる一方で、
現代の生活様式に合わせた使い勝手や快適性が求められます。
※8 自房: 主に仏教寺院において 住職や僧侶自身が住んでいる
建物・部屋を指す言葉です。











随分昔から伝わってきた造像法、造仏法というものは、師匠から弟子に伝える口伝みたいなもんで明治まではあったんです。
各工房に伝わっている口伝書、造仏の心得書として、門外不出※1とされていたので、秘伝書・奥義書(以降:奥義書・書物)という人もいました。