対話形式の掲載にしていますので、ぜひ見てください。
今回は向吉悠睦先生の作品「吉祥天」や
松久宗琳師(以降:お師匠・若師匠・先生)の
「吉祥天像」完全模刻を参考にしてお話をお聞きします。
この形は、
お参りに来た子(子は例えで、大人も含め参拝に来た方)が、
そこにおったので その子に顔を向けたという場面だから
首をかしげた雰囲気にしたんだと思います。
むっちゃ彫るのが難しかったんですよ。
こちらは2代目です。
如意宝珠(にょいほうじゅ)を吉祥天の御霊(みたま)に例えて、胸の前にある状態です。
いつでも拝める状態にしようと思って
お顔を正面にしました。
とても、美しいです!
私は18歳で松久朋琳師 宗琳師に内弟子として入門して、
徒弟制度の中で一番最初は、お掃除・食事当番もやって、台座・光背作りを必死でやりました。
デザインから全部自分で描いて、お師匠さんに持っていってOKと言われたら、次の段階、また次の段階ってどんどん進めました。
それから6年目で思い切ってお師匠さんに
「模刻をさせてください」って言うと
「何を彫りたい」と聞いていただいたので、
初めて造る大きな作品の参考が欲しかったので、
以前から
「うわっ、キレイやなぁ〜、これ造りたいなぁ〜」
って思っていた 2尺5寸※2の吉祥天が思い浮かんで
「先生の吉祥天を彫りたいです」って言ったら、
快諾してくれて、
「おう、ほんだら あれ持ってこいっ」って、
京都市内から山科の九条山まで、4尺(1m20cmほど)の像をわざわざ持って来てもらいました。
「その代わり貸し出しは1週間や」
「その間に写真なりデータなりを自分で取って、
作ってみよ」とのことで、
写真をとにかく撮って撮って撮って…
もう、いろんな角度、手だけでも何十枚も撮って、
お顔なんか もっと。
で、データを取らせてもらって、
作らせてもらったという経緯があります。
6年目で24歳の当時、技術的に まだまだだったので、
お師匠は、その意気込みだけ買(こ)うてくれたんだと思っています。
その時、よっぽどお師匠の機嫌が良かったのか。(笑)
この人とおんなじ作品を作れるようになりたいなぁって、
弟子やったらみんな思っていることなので、それは もう嬉しかったです。
1週間でデータを取るのも、
とても大変なことですね。
そうです。
あの当時の写真って、今みたいにデジタルじゃないので、現像がなかなか上がってこない。
まだか、まだか…
3日ほど待ってやっと上がってきて、
それをA4でプリントして、そしてさらにコピー屋さんでA3に伸ばして、実物の大きさにするために工房の中に何枚も重ねてペタペタ貼ってるわけですよ。
先生が来たら、
「こんなことする奴は 初めてやなぁ」って
大笑いされてね。
制作期間は、1年しかないんです。
しかも、夜と日曜しか制作する時がないので、
あと2ヶ月しかないってなった時に、まだ半分ぐらいしか仕上がってなかったんですよ。
仕上げるの無理やなって思ってくれたんでしょうね。
「明日、休むか?」って言ってくれたんですけど、
「いえ、結構です」って返事して、
そこから、2ヶ月で全部仕上げました。
完成した時はお師匠さんは
とても喜んでくれたんじゃないですか?
こいつがここまでやるかって思ったんやと思います。
でも その時は彫刻の本体の方には抜擢されなかった。
それは次の年の毘沙門天さんを彫ってからでしたね。
1年やったら誰でもできる。
2年、3年続けて良いのを作れるやつじゃないとと思ってたんでしょうね。
先生の横には そういう人ばっかりがいました。
当時、四天王と言われている人がおりましたので、
その中に食い込もうと思ったら 言葉は悪いけれど誰かを蹴落とさないといけない。
それも、4人目で自分が上がるというのは多分無理なんで、筆頭になって上がらないと次の年に師匠の横へ呼んでもらえないと思っていました。
で、毘沙門天を作って
明日から隣においでって言ってくれたので、
よかった、やっとこれで先生の隣で彫れるって
思いましたね。
6年目は吉祥天、7年目は毘沙門天と、
この2年間で 私が今にたどり着くまでの道すがらで、
一番 急勾配で伸びた時期だと思います。
吉祥天、毘沙門天、そして最終的に等身聖観音。
この三体で自分なりに独立してもいけるんではないかという手応えを感じました。
先生のいろんなご縁を繋げてくれた毘沙門天も
この時期に先生が彫ったものだったんですね。
完全模刻とはどういったものなんでしょうか?
お師匠さんの作品を模刻することで、
今の私が
"どれだけの目を持ってるか"
というのを試したのが、この吉祥天が一作目でした。
とにかく手だけを鍛えてもダメで、
目を鍛えないといけない。
これが、すっごい勉強になりました。
完全模刻は、本物を横に置いて、
「さあ、どこが違う」
というぐらいに完全に写すのが、完全模刻と言います。
自分の意思を入れないのが完全模刻で、
「あ、ここはちょっとこういう風にしてみたいな」というのが一カ所でも入ると それは完全模刻とは言わず、模刻になります。
お寺などの国宝や重要文化財を焼失したり 失くしたり、壊れたりする前に完全模刻で写して同じものを作っておくという仕事も 私たちの時代にはありました。
今では、スキャンして完全にデータで取れるようになっているので、完全模刻で写す仕事は、もう今は無くなってしまいました。
私が最後にやったのが、高野山の大日さんでした。
ご縁が何十年っていう時を超えて重なったのが、
この吉祥天なんです。
彫って何年もした、私が30代か40歳そこそこの時に出席した鹿児島県人会で、
当時、会長されていた川野重任先生※3が工房へ来てくれたんですよ。
私が30歳の時に工房を設立して1回目の展覧会を鹿児島の黎明館で家内と二人で開催した時に、初めてこの吉祥天の完全模刻を出しました。
この展覧会を見に来られた東京の業者さんが、東京でも美術展をしたいってことになって、増上寺のお堂を1個所貸し切って、家内と二人で40点程出して この吉祥天も出したんです。
その展覧会で川野先生が一目惚れしはって、展覧会が終わってしばらくして工房へ来てくれた時に
ぜひ、この吉祥天さんを鹿児島に持ってきてくれないかという話になりました。
川野先生は鹿児島県の加世田※4出身なので、
「加世田市の竹田神社というところに
大きな楠がありました。」
と話してみたら、
「あった あった。
あれは、もう確か倒れたよね。」
とそのことも知ってはったので、
「あの木です。」
と伝えると、えーって驚いて、
「それは もう ぜひ里帰りしてほしい。」
とおっしゃって、
「鹿児島で我々が小さい頃から遊んどった
竹田神社の中に生えとった あの木で作ったのが、
この方やということであれば、
もう、ぜひこの方に里帰りしてほしい。」
という話で、今は鹿児島県南さつま市加世田の
加世田郷土資料館※5にあります。
実はこの材料が、私の父親が持っていた木で、
私が6年目の時には、彫る木を持っていなくて
父親に吉祥天を彫らしてほしいから、
分けてくださいって頼んだ木が、
竹田神社の境内にあった
かなり大きく直径が3m近くあった楠※6だったんです。
昔、その楠が災害で倒れて、たまたま、業者さんが父親に連絡をして、父親とその友人との二人で半分にして買い付けて、それぞれで持ってたんです。
父親が20年近くも前から貯木して乾燥させて
世話をしていたその材料。
またその木が 作品になって自分の生まれ故郷に里帰りしてきた。
ご縁が重なるというのを感じました。
ご縁ってとても不思議で、でもつながりがしっかりとしているのが本当にすごいことだと感じます。
そして、またしっかりと残っていくのもご縁なんですね。
やっぱり残るものというのは、ちゃんと責任を持ってやる必要がありますね。
当時、お師匠が50代ギリギリの辺り(一番厳しい目を持っていた時期)に この吉祥天を模刻させてもらったことは、私にとって本当に財産になっています。
うちの父親は本当に厳しかったけれど、
お師匠さん お二人とも父親に比べればですよ、
ほんまに優しかった。
いらんことは一切言わんし、
「作品には責任を持て」という たった一言だけでした。
私が京都にいる時には、こんなこともありました。
大(おお)師匠で受けた仕事はそのまま納める。
だけど、台座でも光背でも本体でも
宗琳で受けた仕事は、おじいちゃん(松久朋琳師)の顔で納まれへんって言って
完成してるんですけど、バリバリバリって…
法要の日を変えてでも、もう一回手を入れる!
みたいなこともありました。
結局、その時は夜なべしてお顔をなおしましたけど、
「もう勘弁してくれ」って思ってました。(笑)
でも、それがあったから、師匠同士が親子で争うてるんやなくて責任の所在も含めて競うてるから、そこら辺はね、
やっぱり見させてもらってて よかったです。
自分らも そこは肝に銘じてやっておこうと。
百年、千年以上も残る仕事の責任。
ご縁もたくさんの方の思いで重なっていることを少しでも知ることができました。
また、現在展示の資料館でも思いが繋がって
作品を大切にされていることをお聞きしました。
これが、形も思いも含めて "残る" ことと
私なりですが、感じることができました。
今回もとても素敵なお話をしていただきまして、ありがとうございました。
※1 昭和51年 松久宗琳師作 総尺4尺 身丈2尺5寸 檜材 截金仕上
※2 約75.8cm(75.7mmから76cm程度)
※3 川野重任(かわのしげとう)先生… 東京大学名誉教授 鹿児島県南さつま市(旧加世田市域)出身
※4 鹿児島加世田市(現:鹿児島県南さつま市加世田)
※5 2025年12月現在、こちらの施設で展示されています。
※6 竹田神社境内の楠は「竹田神社の大楠」などと共に親しまれています。
1991年 「あさば仏教美術工房」設立(向吉先生30歳)
仏教美術展二人展(鹿児島黎明館)
仏教美術展(東京芝の増上寺)









吉祥天を完全模刻させていただいた時期があって、
こちらが、お師匠の作品「吉祥天像」※1を完全模刻した時の写真(白黒)です。
父親から分けてもらった材料の楠で彫りました。